踏みしめる。植物茂る地面を。
 大きく息を吸い込むと足の裏でつぶされた草花が匂い立つ。

 土を踏むのは久しぶりだと、息を切らしながら野山を登る和仁は思った。ずいぶんと長いあいだ邸から出なかったためか、山に入って登り始めた直後から体力の衰えを感じて仕方がなかったが、苦しげにするたび前を歩いている花梨が心配そうに顔をのぞき込んでくるので、希望に応えるためにも、和仁は無理に花梨と時朝の散策に付き合っていた。二人に比べれば歩みも遅く、息切れして立ち止まれば、背後からついてくる時朝が素早く声をかけてきて、この状況から逃げようにも逃げ出せない。二人の目的は秋の野山の景色を和仁に見せてやるというものだろうが、疲労が激しく自分の足元を見ながらうつむいて歩いているので、結局は景色どころではなかった。

「すまぬ、休ませてくれ」

 脚が痺れを感じ始めたとき、ちょうど腰かけるのによい石があったので和仁はとっさに合図を送った。二人の返事を待たずに石の上に滑り込み、はあ、はあ、と、自分でも情けなくなるほど激しい息切れを起こしながら、帰りは下りとはいえ苦労して上ってきた道を再び同じだけ辿らなければならないのかと、絶望にも似た気持ちを抱く。もともと身体が弱く箱入りに育てられたせいで、こういった運動自体が苦手分野なのだ。
 近寄ってきた花梨の履物――これは和仁の見たこともない、とても珍しい形をした履物だった――が見えて、この娘は、どうしていつも元気でいられるのかと、感心というよりは呆れの感情を抱いた。

「大丈夫?」

 大丈夫ではないから休んでいるのである。

「悪いが……この先、登りきる自信がない」
「でも、あと少しなんです。あと少しで、見晴らしのいい場所に着くの」

 どうぞ、と近くに来た時朝が和仁に水筒を差し出す。和仁は礼も言わずに中身の水を飲んだ。

「付き合いたいのはやまやまなんだがな、私は都育ちゆえ運動には慣れておらぬのだ」

 きっぱりと言い切り、花梨を睨むようにして見上げる。花梨は怖気づいたようにぐっと口を噤んだが、すかさず時朝が彼女を援護する。

「慣れれば、どうということはありません」

 和仁は頭を抱えた。この二人は共犯なのだ。すかさず時朝に視線を移せば、有無を言わせない優しい苦笑を浮かべて見つめられる。花梨の「がんばりましょう」という言葉も聞こえてきて、和仁はついに観念の溜息をついた。

「先に行け……私は後から追いつく」
「だめですよ。和仁さんが心配だもの」
「心配するようなことを私にさせているのは誰だ」

 さあ行きましょうと花梨は堂々と文句を無視して山登りを再開した。時朝も和仁が突き返した水筒を受け取りながら穏やかに頷き、少し先でお待ちしておりますと言い残して花梨の後に続く。
 人の話を聞かない奴らだと呆れたが、今となってはこの二人に悪態をつけない自分も悪いのだ。





 しばらくして、少し開けた場所に出た。剥き出しになった土が六畳ほどの空き地を作り出している。特に整備されているわけではないが、ちょっとした観光地のようで、これまで登ってきた路は人が作り出した獣道だったのだと気付く。きっと今日の都を訪れた外部の者や、都の民が散策で利用している場所なのだろう。
 休憩を求めた旅人が置いたらしい石が目に入り、和仁は素早く歩いてそれに腰かけた。息切れが収まらない。

「和仁さん、本当に体力が無いですね」

 少し離れた場所から花梨の声が聞こえてきたが、和仁は息を整えることに集中した。上を見上げると枝葉が広がっていて、そこに無数の赤い実がなっているのが見える。

「……ぐみ」
「そうそう、和仁さん。前に和仁さんに持っていったぐみの実は、この木のものなんですよ」

 ほとんどの実が高い位置にあるので、その時は時朝に取ってもらったらしい。以前、彼女が持ってきたぐみの実は、まだ熟しが足りずにえぐみが強かったが、時朝ならば取る時点で熟しているかそうでないか見分けがつくはずだ。きっと彼女の好奇心を無駄にしないために、何も言わずにいたのだろう。

「もう熟したかしら」

 和仁の前に立ち、花梨もまた木を見上げた。

「……そうだな。時朝、取ってやれ」

 命令すると、時朝は当然といったふうに頷き、片腕を伸ばして跳んだ。時朝の長身だと、下の方の枝にある実が取れるのだ。
 ぶちっという音と共に、いくつかの実が時朝の手の上に転がる。どうぞと花梨に差し出せば、彼女は嬉しそうにそれらを受け取った。

「ありがとう。食べられるかしら」
「見せてみろ」

 あまり協力する気は起きなかったが、以前、まだ熟していない実を食べてしかめっ面をしていた花梨を思い出すと気の毒になって、和仁は花梨の手から実をひとつ取り上げた。どれ、と指で押すと、今にも潰れそうなほど柔らかい。
 これならばと、和仁は花梨に実を戻してやった。花梨は不思議そうな面持ちで手のひらに載せられた実を見ている。

「熟してる?」
「食べてみればよい」

 詳しくは説明せず、そう促すと花梨は素直に頷いて実を一つ口に含んだ。すぐに眉間にしわが寄り、隠すように口元に片手が当てられたが、しばらく噛んでいるうちに感想が変わったらしい。

「酸っぱいけど……前よりは食べられますね」

 嬉しそうに微笑む花梨に居心地が悪くなり、目を反らす。その視線の先には時朝がいて、よくできましたというふうに微笑まれて、カッと頬が熱くなった。

「もう帰るぞ」

 すっくと立ち上がると、種を懐紙に吐き出していた花梨は慌てた様子で「どうして」と声を上げた。

「着いたばっかりなのに」
「疲れたとさっきから何度も言っている。頂上にも着いたようだし、そもそも神子の目的は、このぐみの木だったのだろう」

 ずばり言ってやると、花梨はいたずらを暴かれた子どものようにはにかんだ。

「だって、和仁さん、実が熟すのはもう少し先だって言っていたから、いい頃合いなのかしらと思って」
「時朝……私を連れてくるまでもなかろう」

 じろりと従者を睨む。時朝は何食わぬ顔で肩をすくめ、運動不足解消で一石二鳥であるなどと言い返してきた。この男、花梨と絡むようになってから主に対して強情になってきたのではないだろうか。げんなりして、二人の意見を求めず、さっさと下山の路を辿り始める。

「和仁さん!」
「うるさい。早く邸に戻って茶を淹れるぞ、時朝」

 振り返らずに声を張り上げれば、二人のくすくすという笑い声が聞こえて腹が立ったが、山から見下ろす秋の京の景色があまりに美しく、不平不満を言う気も失せて、和仁は歩きながら少し深い息をした。
 忘れかけていた季節の匂いが、手足の指先まで充満するようだった。